錦影繪池田組
錦影絵総説

「風呂」と呼ばれる幻燈機。桐材でできており、軽々と操作することができる。レンズの前の黒幕により、投射のオン・オフを制御する。 電気のない当時は、菜種油などの燈芯が使われていた。照度は相当低いが、行燈や提燈が夜の光源であった時代では、まったく不足はなかったと思われる。

スライドを収納する桐製の「種板」。動きを演出する各種の仕掛けが施され、手動で操作する。 スライドにはビードロ(ガラス)が、彩色には染料が使われていた。

■西洋幻燈から木製幻燈の見世物 そして「錦影絵」へ

 西洋の幻燈機(トーフルランターレン=オランダ語で悪魔のランタンの意味)が、蘭学とともに日本に伝わったのは、明和年間(1764~1772)であると、杉田玄白が「蘭学事始」で述べています。 安永8年(1779)刊の手品の書「天狗通」では、南蛮渡来の幻燈機の模造品である木製幻燈機「影絵眼鑑」が眼鑑屋で売られ、その見世物が大坂難波新地で演じられ大評判になった、とあります。 また、浜松歌国の「摂陽奇観」にも、寛政2年(1790)に、「影絵眼鑑」の見世物が難波新地で大当たりをした、という記述が見られます。
 上方を中心とした地方では、早い時期から複数の木製幻燈機を使って、語りと音曲に合わせて浄瑠璃や歌舞伎などの物語を和紙スクリーンに映し出す上演が行われていました。 それらの演目や、新たに発見された小人数で楽しむ「座敷影絵」の木製幻燈機と、その「種板(たねいた=スライド)」などの資料を詳しく考察した最近の研究によると、 上方一帯では木製幻燈機による物語の上演形式が、すでに整っていたと考えられます。
 天保年間(1830~1844)、富士川都正(初代)は、江戸で「写し絵」といわれていた木製幻燈機による上演興行を、色彩が豊かで鮮やかであるという意味の「錦」の字を付け、 「錦写し絵」と称して大坂で上演しました。やがてそれが「錦の影絵」となり、さらに「錦影絵」となって、上方を中心とした地域では「錦影絵」という呼称が定着したようです。

■江戸に広まった「写し絵」

 大坂の難波新地などで評判となっていた木製幻燈見世物は、ほどなく江戸へ伝わり、享和元年(1801)、「エキマン鏡」の名称で上野広小路の見世物にかかりました。 これに刺激され、その2年後に、三笑亭都楽が牛込神楽坂の茶屋「春日井」で木製幻燈機を操って「江戸写し絵」と称した芸能を有料で公開しました。
 このように江戸では、「写し絵」という呼び名で木製幻燈機による上演が興行として成り立ち、広がりを見せていました。 その盛況ぶりは、当時人気の浮世絵師・歌川国芳の団扇絵や挿絵に、幻燈を鑑賞する人々が活写されていることからもわかります。

■他の伝統芸能と融合する優れた映像芸能

 「錦影絵」は、手漉き和紙を横繋ぎに貼り合わせたワイドスクリーンの裏側から、数台の「風呂」とよばれる木製幻燈機を操作して映す、リヤプロジェクション方式の影絵芝居です。 18世紀末にベルギー人のエティエンヌ・ロベールソンがフランスで行った、複数の幻燈機と煙や半透過の紗幕を重ねる悪魔的魔術幻燈「ファンタスマゴリア」に通じるものがあります。
 鳴り物や口上に合わせて、物語りの世界をスクリーン上に繰り広げます。演目は、歌舞伎や浄瑠璃・講談・説経節・軍記・仏教説話・落語などに題材を取ったものが多く、 中でも、暗闇で上演されるという臨場感に想像力をかき立てられる怪談・妖怪ものには、特に人気が集まりました。

■動きと彩色の自由を獲得した「錦影絵」

 ロベールソンの「ファンタスマゴリア」は、重くて熱い金属製の幻燈機を、車のついた映写台の上に取り付けて動かしていました。 一方、「錦影絵」は、軽くて熱に強い桐を使用した木製幻燈機「風呂」を使い、幻燈師が抱えて自由に動きながら映すことが可能です。
 また、映写レンズ前のシャッター幕と手の操作を駆使し、映写距離を変化させたり、レンズの繰り出しの調整や、複数の「風呂」によって映像を重ねて映すことで、 カットイン・カットアウト・フェードイン・フェードアウト・ズーミング・オーバーラップといった高度な映写効果の工夫が考案されました。 これらの映写技巧に、「風呂」の動きや、スライド板である「種板」に仕掛けた絵の変化のための細工が加わって、物語と音曲に沿って絵を自在にいきいきと動かすことが可能となったのです。 このように、「錦影絵」の大きな特徴は、その表現において、「風呂」と「種板」を操る幻燈師の身体の動きと映像とが密接に関わり、独特の「気配」を醸し出すことにあります。
 さらに、当時の染め付けの技術は、スライドにあたるガラス板(ビードロ)の製作に生かされました。 光をよく透過する染料で彩色され、周りを墨で黒く塗りつぶすことで、 闇の中に浮かび上がるように映し出された鮮やかな色彩が、人々を大いに魅了しました。 こうして、自在な動きと鮮烈な色彩という進化を遂げた「錦影絵」は、大衆の心をしっかりと捉え、芸能としての独自の文化を築いていったのです。

■衰退から創造的復活へ

 興行芸能としての地位を確立した「錦影絵」は、各地に常設小屋ができるほど人気を博しました。 明治維新以後もその人気は続きましたが、 その後華々しく登場した新しい映像娯楽である映画が普及するにつれて衰退し、昭和の初め頃には廃れてしまいました。
 その後昭和50年代に入り、伝統芸能を見直す機運の高まりの中で、この「錦影絵」を復活させようという動きが各界で起こりました。 池田光惠(大阪芸術大学教授)が主催する錦影繪池田組では、「錦影絵」を日本のアニメーションの原点として捉え、その創造性と芸術性を再認識することを目的とし、 「アートプロジェクト・錦影絵」をスタートさせました。 これは、単に伝統芸能としての「錦影絵」の装置や構成の復元にとどまらず、その魅力を引き出す新しい物語を創作し、 上演することによって、現代のアートへと昇華させるプロジェクトです。
 「錦影絵」の魅力を、たくさんのみなさんに知っていただくため、関西を中心に各地で上演を重ねています。 また、上演以外にも、実際に「種板」を製作し、「風呂」を操作して短い物語を演ずることで、「錦影絵」に親しむことのできるワークショップも実施しています。
 「錦影絵」は、デジタルコンテンツが席捲するあわただしい現代にあって、淡い郷愁と豊かな想像力を心に投射してくれる、素晴らしいアートです。


アメリカ・カナダ幻灯協会(The Magic Lantern Society of the United States and Canada)の機関紙に掲載された論文
"Nishiki Kage-e (Japanese Magic Lantern): Characteristics and Establishment of Its Performing Space -- Mitsue Ikeda, Director, Nishiki Kage-e Ikeda-Gumi"

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